何が現実か?
先日、出張で朝日地球環境フォーラムに行ってきた。
2日間のフォーラムだが、ぼくが参加したのは2日目だ。
2日目は3つの分科会が同時開催だった。
どれに出ようか悩むところでもあるが、最初に参加した「原子力、自然エネルギーをどう使うか」という分科会はなかなか面白かった。どんな様子だったかは、朝日新聞の報告記事が出ている。
何が面白かったかと言えば、パネリストの4人が4人とも「現実を見よう」と言ったことだ。
これはユリウス・カエサル(つまりはジュリアス・シーザー)が言ったという「人間は見たいと欲する現実しか見ていない」という言葉を引用してのものだ。
正確には、最初のパネリストの近藤洋介さんがこの言葉を引用して、「もっと現実を見よう」と発言したのに対して、他の3人のパネリストが「自分もそれを言おうと思っていた」、「まさにそれがポイントだ」というような発言を行い、この言葉については全員一致したのだ。
しかし、それぞれのパネリストが思い描いている「現実」とは、みな異なるものであるに違いない。
今の体制を維持したい人たちにとっては、今までの経済論理そのものが現実であろう。それを続けた結果がどのような将来を生むのかは、その人たちにとっての現実ではないのだろうと思う。
このままではだめだと考えている人にとっては、このままの社会のやり方が続くはずがないということが現実なのだろう。
言ってみれば、現在を起点として過去を見るのか、未来を見るのかの違いがあるのだろう。もちろんこんなに単純なことではないだろうが。過去を見たにしても、全く異なる景色が見えているに違いない。
ぼくにしてみれば、有限であるはずの地球で、無限を前提にやっている今の経済活動や社会体制、エネルギー供給など続くはずがないということ、それがぼくにとっての現実だ。さらに踏み込めば、例えば、国や電力会社が言うような原発が最も安い電力だなどというのは砂上の楼閣の話であって、実は最も高コストなのだというようなことが現実だ。
平行線をたどりそうな話ではあるが、現実をつきつめて、掘り下げて考えていくことは大切だ。
絶対的な現実は存在するのだろうか?
そもそも「現実」というくらいなのだから、本来は絶対的な現実が存在してもよいと思う。ああ、そうか。絶対的な現実という言葉も変かもしれないなあ。現実とは絶対的なものと考えれば。
しかし実際には人々の意識の中にあるのが現実であり、合意したのかどうかは定かではないものの、いちおう社会で金を握っている人たちが合意したことが現実になっているだろう。
ぼくたちが現実だと思っていること、その裏付けは何なのかを突き詰めていくことが、現実を見ることになるのだと思う。
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