携帯しか見えない人たち
東京へ出張して駅や人通りの多いところなど歩いていてすごく気になることがある。
携帯を見ながら歩いている人たちの存在だ。
松本など地方都市でもそういう人はいるので、単に東京は人が多い分、よけいに気になるだけなのかもしれないのだが。
そういう人たちは携帯しか目に入っていないらしい。他の人のことなどお構いなく歩く。急に立ち止まる。向きを変えたり、ふらふらしたり。ともかく動きが読めない。
なんでこんな人のためにこっちが気をつけなくてはいけないのかっ!と怒ってみても、あちらは何も気がついていないから、こっちがただ消耗し疲れるだけだ。
だれもいないような場所ならそれもよいだろう。だが多くの人が歩く公共の場所でやってはいけないことだ。どうしてそんなことがわからないのだろう。そんなに四六時中見ないと困るものなのか。見れば、この社会が良くなるのか。
こうして、ぼくの携帯嫌いがまた進行してしまう。
まあね、携帯は道具だから、本来は携帯が悪いわけではない。
使う人の問題だ。
よい道具、可能性のある道具ほど、それに見合った人が使う必要があるということなのだろう。
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