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2013年7月 4日 (木)

メディアあげての、「ねじれの解消」というプロパガンダ

今日、選挙が公示された。
今回からはネットを使っての選挙活動もできる。

たしか有権者がブログで特定候補の名をあげて応援するのはOK、メールではダメ、ということだったと思うが、これについてはもう少し勉強してから、ブログやらツイッターやらMLやら活用することにしよう。

テレビや新聞を見ていると、やたらと「ねじれの解消」という言葉を見聞きする。
自民や公明がそう言うのはまあ聞き流しておこう。彼らにとってはねじれなのだろうから。

許せないのは、メディアが繰り返し繰り返し今回の争点は「ねじれの解消」と言っていることだ。
もちろん、はっきりと「ねじれを解消」しましょう、とは言っていない。
解消できるか、それを阻止するか、と言っている。

しかしだ。
ここには少なくとも2つ大きな問題がある。

ひとつは、あたかもねじれが悪いことで、だから解消しなければならない、と思わせるような口ぶり、言い方が多いことだ。
そもそも、「ねじれ」という言葉にはすでに、それはよくないこと、という意味が感じ取れるではないか。
さらに「解消」となれば、何かよくない状態があるので、それをやめるんだなあ、と思ってしまうではないか。
あまりにも誘導的だ。
だからプロパガンダだ。

もうひとつの問題。
現在の国会は大いに問題がある。なぜこのような人が議員なのか、という例も多々あるだろう。
ねじれの解消はともかくとして、解消すべきこと、解決すべきことはたくさんある。
だが、良くも悪くも、この議員を選んだのは国民だ。
あたかも「ねじれ」がよくないことであり、なぜか知らぬが「ねじれ」などという望まない状況を作ってくれてしまってあるので、ここで「解消」するのだ。という主張や報道は、暗に、その構造を作ってしまったおろかな国民ということを言っているのと同じだと思う。国民をばかにした主張や報道ではないか。

たしかに、こんな国会にしてしまったのは有権者の責任だ。
だからこそぼくたち有権者は今度の選挙に真摯に臨む必要がある。

だが、このようなプロパガンダはぼくの目からは許し難い。
自公や多くのメディアは、日本をどうしていきたいのだろう。

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