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2016年7月

2016年7月26日 (火)

教育と強制、刷り込み

夜、ラジオでニュースを聞いていたら、小学校の終業式の様子を伝えていた。校長が「友だちが赤信号の横断歩道を渡りながら、『一緒に渡ろう』と声をかけてきたらどうしますか」と問いかけ、子どもたちが「だめ」と答えたというものだった。
「だめ」とは何だろう?
自分は渡っては「だめ」?、友だちが渡ったり誘ったりしたことが「だめ」?、いやいや「だめ」な友だち?
そんなことも頭をよぎったが、ともかくもこのニュースを聞いていやな感情が生まれた。
ニュースは断片的であるし、前後の話がどうだったのかもわからないので、現実のどこかの小学校のことをあれこれ言うのではなく、仮にここに書いた通りのやり取りがあったとしたら、それに対してぼくはどう考えるかという前提で書いている。
どうしていやな感情が生まれたのか?
それは、これは教育ではないと感じたからだ。教育ではなく強制、あるいは刷り込みだと思った。
いくつもの答が返ってくるであろう内容の問いかけを全校集会のような場で行ない、なかば無理やり画一的な答を言わさせる。
これでは教育とは呼べないだろう。
「赤では渡っちゃいけなからぼくは渡らない」
「友だちに『赤で渡っちゃだめだよ、やめなよ』と言う」
「そんなこと言ったら、友だちからいやなやつと思われてしまいそうだから、一緒に渡る。もちろん車が来ないことは確かめてね」
「先生に言って注意してもらう」
などなど、もっといろいろな反応が出てくるだろう。
社会のルールと個人の価値観と言ったような、同じ土俵の上ではなかなか語れないことを、全校集会の場で問いかける。
「だめ」となかば強制的に言わせる。
考え過ぎかとも思ったが、何か画一的な考え方へと子どもを誘導し、刷り込ませるようなことが行われているように感じてしまったのだ。これがいやな感情だった。
いろいろな疑問や答が生まれるであろう問いかけに対して、差し障りのない、あるいは問いかけた者が期待している答でよしとしてしまってはならない。
大人こそ、この本を読むべきだろう。

オスカー・ブルニフィエの「こども哲学」

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2016年7月21日 (木)

50回目の献血

今日は会社でぼくにとって50回目となる献血をした。

献血量は1回につき400ミリリットル、トータルでは20リットル
灯油のポリタンク1本分だ
すごいものだと思う

すごいと思ったのは体の働き
ふだん暮らしていて、小さなけがなどでわずかな血を流すことはあっても、ほんとにわずかだ
だから感覚的には血の入れ替わりはあったにしても、量の増減はそんなにないように思う

だが、400ミリリットルの血液、もしこの量の血液を床にぶちまけたらそのものすごさに卒倒しそうな気がするが、この量を短時間で失っても、ちゃんと作り出す
ふだんはそんなに一気に血液が減ることはないと思うのだが、いざとなれば、ちゃんと作り出す機能がある

これもホメオスタシス(恒常性)のひとつなのだろうか?

いずれにしても、人間の体はたいしたもんだ

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2016年7月20日 (水)

再びヒシ除去作業

6月に引き続き、諏訪湖のヒシ除去作業をしてきた。
場所は同じ下諏訪の高浜沖、前回はちょうどひと月前の作業だったが、その時よりもヒシは増えていた。
ただあの時は悩まされた悪臭がだいぶ軽減されていた。
水の濁り方は違いがわからなかったが、フナの死骸の数が明らかに違っていた。
死んだフナが放つ腐敗臭は強烈だ。
前回よりも激減していたものの死骸はあった。
でも、昨年以前の作業では見た記憶がない。
何かが違っている、変わっているのだろうか。

この作業はまだまだ続きそうな気がする。
来年も再来年も、その次も。

根本的な対策ではなさそうだから。

でも、根本的な対策を考えないほうがよいのだろう。
人間の浅はかな考えでやってしまうと、しっぺ返しがありそうだ。
今くらいのペースで、ぼちぼちとやっていくのが正解なのかもしれないなあ。

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2016年7月11日 (月)

だましても、だまされても、あたりまえなのがこわい

参院選が終わった。

案の定、安倍首相は改憲の話を持ち出してきた。
選挙中は論点からさけていたのに。


やはり、と当たり前のように受けとめるようになってしまっているのがこわいと思った。
ああ、またかとの気持ち。
こんなのばかり繰り返されて不感症になってしまってはいけない。

さらには、だまされていることに気がつかない人が圧倒的に多いのではないかと思う。
それこそが自民党の思うつぼなのだろう。

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2016年7月 5日 (火)

「いいね」はよいか?

Facebookの特徴的な機能に「いいね」がある。

たしかに、自分の投稿に知り合いから「いいね」があれば、うれしい気持ちにもなる。

ところで「いいね」とはどういう役割のものなのだろう?
文字通り、いいね、あるいは、自分もそう思う、そんな意味はありそうだ。
また、単に「読みました」ということを伝える場合もあるように思える。
他にもあるだろうか?
「いいね」をするとき、どんな気持ちで、何を考えて「いいね」しているのだろうか。

なぜ、こんなことを書いているのかといえば、グループのメンバーに対して、ある問題が起きて困っていることを状況説明したりした投稿に対して、ただ「いいね」とだけあると、???と思ってしまうのからだ。
ぼくが「いいね」という言葉にとらわれすぎてしまっているのかもしれないが。
ぼくの気持ちとしては、「いいね」ではなく問題の解決に向けて発言するなり行動するなりをお願いしているわけだが、単に「いいね」では、問題をわかってくれているのかなあという気持ちになってしまう。

そんなに深くとらえているわけではないが、どうも気になってしまうのもたしかだ。

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2016年7月 4日 (月)

目の前にある緊急事態にも対処できないのに

引き続き緊急事態条項について。

緊急事態とは、武力攻撃や大災害などが起きた場合を指すとのことで、確かに緊急事態ではある。

だがこれから起きるかもしれない緊急事態の心配だったら、すでに起きている緊急事態である福島第一原発の始末をきっちりつけたうえで心配するってものだろう。
すでに存在しているものにさえ満足に対処できないのに、何が起きるのかわからないことについて対処できるはずがない。
あ、そうか。何が起きるかわからないから、そのどさくさにまぎれて、やりたい放題する権限を手に入れようってことか。

そして緊急事態とも言えるが、常態となっている原発から生まれる核廃棄物の処分問題。
問題ははっきりしているのに、課題化もしないでいる。

それにしても、緊急事態条項で何をしたいのだろう。

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2016年7月 3日 (日)

緊急事態条項と「新しい判断」

憲法の話。
今回の選挙では自民党は憲法の話題を避けているようだが。

緊急事態条項などというものを持ち出すのではなく、きちんと取り組むべきことがある。
原発に象徴される集中型の巨大インフラに依存するのではない、分散型で自給率が高い、あるいは融通しあえるような食とエネルギー。
いざという時に、自分たちで何とかできるような社会にしていくことこそが真の緊急事態対応だと思う。

緊急事態条項が適用されるようになった時、どのようなことが想定されるか考えてみた。

緊急事態条項によって付与された権限を本来の姿に戻すルールや権限行使を監視するルールが重要だが、「新しい判断」という信じられない理屈を持ち出す姿を見ていると、緊急事態だからという解釈のもとに「新しい判断」を持ち出し、ルールをしばるルールをなきものにしてしまうのではないだろうか。緊急事態が常態となってしまう、そんな社会が容易に想像できる。

そんなことを心配させるより、緊急時はもちろんのことふだんの暮らしに役に立つ分散型の社会に変えていくことが取り組むべきことだと考える

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