« 50回目の献血 | トップページ | 公共のためになっていない公共交通 »

2016年7月26日 (火)

教育と強制、刷り込み

夜、ラジオでニュースを聞いていたら、小学校の終業式の様子を伝えていた。校長が「友だちが赤信号の横断歩道を渡りながら、『一緒に渡ろう』と声をかけてきたらどうしますか」と問いかけ、子どもたちが「だめ」と答えたというものだった。
「だめ」とは何だろう?
自分は渡っては「だめ」?、友だちが渡ったり誘ったりしたことが「だめ」?、いやいや「だめ」な友だち?
そんなことも頭をよぎったが、ともかくもこのニュースを聞いていやな感情が生まれた。
ニュースは断片的であるし、前後の話がどうだったのかもわからないので、現実のどこかの小学校のことをあれこれ言うのではなく、仮にここに書いた通りのやり取りがあったとしたら、それに対してぼくはどう考えるかという前提で書いている。
どうしていやな感情が生まれたのか?
それは、これは教育ではないと感じたからだ。教育ではなく強制、あるいは刷り込みだと思った。
いくつもの答が返ってくるであろう内容の問いかけを全校集会のような場で行ない、なかば無理やり画一的な答を言わさせる。
これでは教育とは呼べないだろう。
「赤では渡っちゃいけなからぼくは渡らない」
「友だちに『赤で渡っちゃだめだよ、やめなよ』と言う」
「そんなこと言ったら、友だちからいやなやつと思われてしまいそうだから、一緒に渡る。もちろん車が来ないことは確かめてね」
「先生に言って注意してもらう」
などなど、もっといろいろな反応が出てくるだろう。
社会のルールと個人の価値観と言ったような、同じ土俵の上ではなかなか語れないことを、全校集会の場で問いかける。
「だめ」となかば強制的に言わせる。
考え過ぎかとも思ったが、何か画一的な考え方へと子どもを誘導し、刷り込ませるようなことが行われているように感じてしまったのだ。これがいやな感情だった。
いろいろな疑問や答が生まれるであろう問いかけに対して、差し障りのない、あるいは問いかけた者が期待している答でよしとしてしまってはならない。
大人こそ、この本を読むべきだろう。

オスカー・ブルニフィエの「こども哲学」

|

« 50回目の献血 | トップページ | 公共のためになっていない公共交通 »

考え方」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1174504/66700003

この記事へのトラックバック一覧です: 教育と強制、刷り込み:

« 50回目の献血 | トップページ | 公共のためになっていない公共交通 »