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2012年11月26日 (月)

どうすれば報道できるのか

24日のブログの続き。

どうすれば報道できるのか、という話について。

質問がある場合は、休憩時間に質問用紙に記入することになっていたので、記入し提出した。
すると、真っ先にぼくの質問が取り上げられた。

「なぜ報道できないのかはわかりました。
では、どうすれば報道できるようになるのでしょうか。
作り手、受け手、それぞれ何をすればよいのでしょうか。
(自由な報道のために)報道NPOを作ればよいのでしょうか。」

なかなか答のないであろう問題ではあると思いつつ質問した。
講師の水島さんからはこんな答が返ってきた。

会社に入ると、企業の論理や理屈の中に組み込まれてしまうから、入るまえに意識付けをさせるために、大学での教育の道を選んだ。

水島さんは自社の原発報道に抗議し辞職している。辞職し、このような考えもあって新たな仕事をしているのか。
これもひとつの手だ。

水島さんはさらにこんなことも言った。
ちゃんと報道した場合は、世間の人々がそれを評価するなり応援する、そんなことも必要。

さらに。
今はネットの時代だから、小型ビデオカメラさえあれば、ひとりで放送局を開くこともできるとも。
たしかにそうだ。すでに実践している人もいる。

報道の場では、現場に出ないで報道している人が増えているそうで、つまりは当事者の記者会見の内容をそのまま伝えるだけ。
そんな話も出た。

ともかく。
メディアリテラシーを持った市民を増やしていかないといけなさそうだ。


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2012年2月24日 (金)

「かもしれません」

このごろテレビを見ていて気になることがある。

そもそもテレビはあまり見ないし、見るのはほとんどがNHKのニュース・報道系の番組だ。
その限られた状況の中だけで感じていることなので、そういった傾向が本当に存在しているのかどうかは定かでないが、アナウンサーやキャスターがたびたび口にする言葉で、とても気になる言葉がある。

「かもしれません」

何かコメントめいたものを発言すると、決まり文句のように、最後はこれだ。
特に、夜9時からの「ニュースウォッチ9」のキャスターは、この言葉しか知らないのだろうか?と思ってしまうほどに、よく使っているように思えてならない。

断定的なことは言えない。これはそのとおりだ。
だが、「○○になる”かもしれません”」では、「○○にならない”かもしれません”」と同じであり、いったいどっちなんだ?と思う。

断定的なことを言えない状況ならば、単に事実だけを述べればよいと思う。
そうでなければ、これから起こる可能性のある事象をただ羅列するだけでよい。
妙に思わせぶりというか、何か批判めいた表現を口にし、何か考えていますよ、みたいなポーズを示す時、よく使われているように思えてならない、「かもしれません」。

「かもしれません」は逃げ場を確保するための言葉だと思う。
ぼくも会社の仕事では、社外に情報発信したり、社外からの問い合わせを受けて回答を用意する仕事をしたことがあるので、逃げ場を作っておきたくなるのはよくわかる。
だが、逃げ場の作り方というのは、「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という発信をすることではなく、自分はこういう情報にもとづき、このように分析し、その結果こう考えるに至ったというものを用意しておくことだと思う。

「かもしれません」で逃げ場を作り、コメントめいたものを発してよしとするその姿勢が、本来マスコミが果たすべき役割を果たさなくなってきていることの象徴のひとつだ。

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