考え方

2018年10月 7日 (日)

「教科書を信じない」とはどういうことか、しっかり考えよう

京都大学特別教授の本庶佑さんがノーベル医学・生理学賞を受賞することになり、10月1日夜の記者会見を聞いていたら、とても興味深く、ぼくなりの解釈で「その通りだ」と思ったことをおっしゃっていました。
「教科書に書いてあることを信じないで、常に疑いを持ち」というものです。
 
NHKのNEWS WEBによれば、研究者を目指す子どもたちへのメッセージを聞かれ、本庶さんは次のようにおっしゃいました。
「研究者にとっていちばん重要なのは何を知りたいかと思うこと、不思議だと思う心を大切にすることだ。そして、教科書に書いてあることを信じないで、常に疑いを持ち、本当はどうなっているのかという心を大切にする。自分の目でものを見て納得するまであきらめない、そんな小中学生がぜひ研究の道を志してほしい」
 
ぼくは記者会見を聞きながら、「教科書を信じない」というフレーズだけが注目され、ひとり歩きしてしまいそうだなとも思いました。
 
これは研究者を目指す子どもたちへのメッセージとして問いかけられたことへの答えであり、だからこそ「そんな小中学生がぜひ研究の道を志してほしい」と締めくくっているのだと思います。
 
本庶さんの真意は本庶さんでなければわかりませんが、ぼくなりの解釈として「自分で考えよう、自分の頭で考えよう」ということだと思いました。もう少し正確に言えば、本庶さんの言葉に触発され、そのことを強く頭の中に描いたということです。
 
ふだん仕事をしていると、証拠・証明や裏付け(よくエビデンスという言葉をよく使いますね)を求められます。必要なことであり、ぼくも重要視しています。
ただ、思考がエビデンスで止まってしまってはいないか?
このことを常に自分にも、まわりにも問いかけることが大切で、それを怠ってしまってはいけない。本庶さんの話でそのことを強く考えました。
 
エビデンスが本当に正しいのか、その意識も必要ですし、大切なことはエビデンスをもとに「ではどうするか」と自分で考えることです。
でも往々にして「エビデンスがこうだから、それに従おう」となりがち。
エビデンスを重視することと、エビデンスを鵜呑みにすることは大きく違います。
エビデンスを鵜呑みにして物事を進めることは、正しいやり方のように見えて、実は自責でなく他責にしてしまっていると言えます。
 
本庶さんのお話で、自分のふだんの考えや行動を自戒し、自分で考えることを徹底していこうと思いました。

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2018年5月11日 (金)

ポケットティッシュを配らない、受け取らない

通勤に毎朝使う上諏訪駅。
時々、駅入口への導入路に人垣を作って待ち構えている人々がいる。
何かのキャンペーンだ。
ぼくはこれが苦手だ、あの人垣の中を通らなければ駅に入れないのだが、とても圧迫感を感じる。
耳をふさぎ、目を閉じて歩きたくなる。
何かを伝えるための人垣だろうに、これでは逆効果だとも思う。
だが、ここで書きたいのはこの手法の是非ではない。

たいていの場合、その声かけはポケットティッシュ配りとセットだ。
ティッシュを差し出しながら何か言っている。
受け取る人は多いように見受けられるが、ぼくは受け取らない。
理由は簡単、ポケットティッシュを配るべきではないと考えているから。
配るべきものでなければ、受け取る理由もない。
森林伐採して製造しているであろうポケットティッシュ。
それを無料で街頭で配る。
この行為がおかしいと思わないのだろうか。

もしかすると再生紙のティッシュかもしれない。
だが無料で配るくらいのものだから、原価の安いティッシュであろうと推測すれば、バージンパルプ製である可能性が高いだろう。

どうでもよいことかもしれないし、そもそもぼくが何か間違った考え、あるいは勘違いをしている可能性もある。
目くじらを立てるようなことではないという見方もあるだろう。
でもやはり、ぼくには受け入れることのできない行為だ。

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2017年9月16日 (土)

That's not my job!

 「これは私の仕事ではない

そうそうだよ、と思わず膝を打つ短い英文と出会いました。
文章の内容に「うんうん」と思ったのですが、英語だからこその面白さにも感心しました。
It's not my job というタイトルがついている場合もあるようです。どなたの作なのか調べてみたのですが、わかりません。
author unknown という記述も見たので、そのまま以下、転記させてもらいます。

This is a story about four people named: Everybody, Somebody, Anybody and Nobody. There was an important job to be done and Everybody was sure that Somebody would do it.
Anybody could have done it, but Nobody did it. Somebody got angry about that, because it was Everybody's job. Everybody thought Anybody could do it, but Nobody realized that Everybody wouldn't do it. It ended up that Everybody blamed Somebody when Nobody did what anybody could have done.

では、和訳してみます。
「みんな」「誰か」「誰でも」そして「誰も」という4人の物語。
しなければいけない重要な仕事がありました、みんなは誰かがそれをするはずだと確信していました。
それは誰でもできるはずのこと、でも誰もしませんでした。
それはみんなの仕事じゃないかと、誰かが怒りました。
みんなは誰でもできるはずと思っていましたが、みんながそれをしないとは誰も気がつきませんでした。
結局、誰でもできることを誰もせず、みんなは誰かを責めたのでした。
(訳 平島 安人)
あ〜、冷や汗かきました。
大きな間違いはないものと思いますが、ニュアンスの点では問題ありかも、ご容赦ください。

さて、ぼくはどうするか?
ぼくはABBAの名曲でいこうと思います。

"I Do, I Do, I Do, I Do, I Do"

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2017年1月 8日 (日)

教えることと与えること

昨日、ラジオを聞いていたら、モリ-・シュワルツについて語っていた。
語り手は作家の小川洋子。
その中で印象深い言葉があった。

小川さんいわく、モリ-先生は根っからの教育者だったのではないか。
そして、教えるとは与えることだと思う、というようなことを言っていた。
運転しながらだったので、詳細は覚えていないが、印象に残った。

なぜ印象に残ったのかといえば、ぼくは自分自身の傾向として、教えたがり、もしくは教えるのが好きだと思っているからだ。
さらにもう一歩突っ込んで分析すると、教えるという行為もさることながら、どのように教えようかと、それを考えるのが好きなのだと思う。
だから、自分の好きな教えるということは与えることなのだろうか?と考えたのだ。

小川さんがどういう意味でそう言ったのか正確にはわからないが、何となく感覚としてはわかる気がした。
そして今、これを書きながらふと思いついた。
与える→あげる→プレゼントする→プレゼンテーション(プレゼン)
こんな連想だ。
そして教えるという行為にはプレゼンとしての側面もあると思う。

つまりはこんなことを考えた。
教えるには相手があるわけで、その相手は何かを教わりたい、つまり何かを得たいと望んでいる。あるいは何かが得られると期待しているだろう。
一方的なプレゼントは、もらう側にとってはさほどうれしいもの、ありがたいものではないだろう。
もらう側が必要とするもの、ほしいものが差し出されてこそプレゼントとしての価値が出てくる。
そう考えていくと、教えることと与えることの関連性のひとつが見えてきたと思った。
その場合、相手の欲しいものを与えるというのは、相手に迎合するということではない。
むしろ、相手に与えた瞬間、その相手はなぜこんなものを与えるのだろうと感じることもあるかもしれない。
あまりひねったプレゼントでは、そのプレゼントの意味が一生わからないままになってしまいそうだが、少なくとも速効性が必要と言うことではないだろう。

相手が喜ぶプレゼントを差し出すことができるとはどういうことか?
それは相手をよく見ている、相手のことがわかっているということだ。
もしかすると、そこに教えるということの本質の一端があるのだろう。

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2016年7月26日 (火)

教育と強制、刷り込み

夜、ラジオでニュースを聞いていたら、小学校の終業式の様子を伝えていた。校長が「友だちが赤信号の横断歩道を渡りながら、『一緒に渡ろう』と声をかけてきたらどうしますか」と問いかけ、子どもたちが「だめ」と答えたというものだった。
「だめ」とは何だろう?
自分は渡っては「だめ」?、友だちが渡ったり誘ったりしたことが「だめ」?、いやいや「だめ」な友だち?
そんなことも頭をよぎったが、ともかくもこのニュースを聞いていやな感情が生まれた。
ニュースは断片的であるし、前後の話がどうだったのかもわからないので、現実のどこかの小学校のことをあれこれ言うのではなく、仮にここに書いた通りのやり取りがあったとしたら、それに対してぼくはどう考えるかという前提で書いている。
どうしていやな感情が生まれたのか?
それは、これは教育ではないと感じたからだ。教育ではなく強制、あるいは刷り込みだと思った。
いくつもの答が返ってくるであろう内容の問いかけを全校集会のような場で行ない、なかば無理やり画一的な答を言わさせる。
これでは教育とは呼べないだろう。
「赤では渡っちゃいけなからぼくは渡らない」
「友だちに『赤で渡っちゃだめだよ、やめなよ』と言う」
「そんなこと言ったら、友だちからいやなやつと思われてしまいそうだから、一緒に渡る。もちろん車が来ないことは確かめてね」
「先生に言って注意してもらう」
などなど、もっといろいろな反応が出てくるだろう。
社会のルールと個人の価値観と言ったような、同じ土俵の上ではなかなか語れないことを、全校集会の場で問いかける。
「だめ」となかば強制的に言わせる。
考え過ぎかとも思ったが、何か画一的な考え方へと子どもを誘導し、刷り込ませるようなことが行われているように感じてしまったのだ。これがいやな感情だった。
いろいろな疑問や答が生まれるであろう問いかけに対して、差し障りのない、あるいは問いかけた者が期待している答でよしとしてしまってはならない。
大人こそ、この本を読むべきだろう。

オスカー・ブルニフィエの「こども哲学」

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2016年7月 5日 (火)

「いいね」はよいか?

Facebookの特徴的な機能に「いいね」がある。

たしかに、自分の投稿に知り合いから「いいね」があれば、うれしい気持ちにもなる。

ところで「いいね」とはどういう役割のものなのだろう?
文字通り、いいね、あるいは、自分もそう思う、そんな意味はありそうだ。
また、単に「読みました」ということを伝える場合もあるように思える。
他にもあるだろうか?
「いいね」をするとき、どんな気持ちで、何を考えて「いいね」しているのだろうか。

なぜ、こんなことを書いているのかといえば、グループのメンバーに対して、ある問題が起きて困っていることを状況説明したりした投稿に対して、ただ「いいね」とだけあると、???と思ってしまうのからだ。
ぼくが「いいね」という言葉にとらわれすぎてしまっているのかもしれないが。
ぼくの気持ちとしては、「いいね」ではなく問題の解決に向けて発言するなり行動するなりをお願いしているわけだが、単に「いいね」では、問題をわかってくれているのかなあという気持ちになってしまう。

そんなに深くとらえているわけではないが、どうも気になってしまうのもたしかだ。

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2016年6月20日 (月)

講演会の楽しみ

今日は会社の業務として、講演会を開催した。
業務として長野県環境保全協会の地区支部の事務局を担当しており、年1回の講演会を開いたのだ。

事務局業務としては3回目の講演会だった。

たぶん、ぼくは講演会とは縁が深いように思う。
講演会とぼくのかかわりは大きく3つにわけることができそうだ。
1.主催者
2.講演者
3.聴講者

このうちかかわりを考えるのは1.と2.だろう。
1.も2.もともに何か伝えたいものがある、その点では共通している。
それを、1.は他人にやってもらい、2.は自分が行うわけだ。
だがそれは全く自由にできるわけではない。

1.と2.を一緒に行う場合、つまり自分の講演会を自分で主催するのがもっとも自由度が高そうに思えるが、イベントは一人だけではなかなか準備や運営ができないので、この場合でも他人とのかかわりを持ちながらになる。

大雑把に言うと、1.の場合は企画そのものは自分の意向を反映できるとしても、講演者が必ずしもその意向に応える内容で話をしてくれるとは限らない。むろん、講演者はこちらの意向を理解し、それに賛同してくれているからこそ講演してくれるのだが、やはり基本は講演者の考え次第だ。
さらに、講演会の企画や運営も、思うように行く部分とそうではない部分がある。

2.の場合、自分の考えを話すことができるが、他人が企画した講演会で話す場合、やはり主催者の意向を尊重する。

今日の講演会はうまく行ったと思うし、何か不満を持っているわけではない。

1.も2.も好きだ。
きっとまだまだ主催者にとっても、講演者にとっても、聴講者にとっても満足度の高い講演会を開くことができると考えているってことだな。


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2016年6月 8日 (水)

法律を破らなければよいなどという社会にはしたくない

政治の世界、経済の世界、何かというと法律上の問題はない、法律遵守、法に照らして、そんな言葉がよく登場していると思う。

法律を破らなければそれでよいのか?答はノーだ。

法律を守っていればよい、それではよい社会にならない。
ルールではなく、マナーができている。それがよい社会というものだ。

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2016年5月27日 (金)

facebookは玉石混交?

facebookにはありとあらゆる投稿がある。
役に立つ投稿も多い。すばらしいことだ。
その一方で、どこそこに行ったとか、何を食べたとか、そういう投稿も多い。
そういった投稿をする人は、現在の状況から何か少しでも変化があった場合は小まめに投稿しているように見え、その結果として記事も多くなる、のだと思う。

そうすると、ぼくにとって役立つ投稿、知りたい投稿などが、それらの日常生活の投稿の中に埋もれてしまって、探し出すのに苦労する。それは、ぼくの使い方が下手なのかもしれない。

公序良俗に反しない限り、使い方は自由だろうし、いろいろな投稿があることが大切だ。

自分にとっては不要なものでも、それを必要としている人たちもたくさんいるだろうし。
そもそも、ぼくの必要性のために投稿するわけじゃないし。

とにもかくにも不思議な世界だ、facebook

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2016年5月 9日 (月)

伝えることを伝えられるか

今度の土曜日、信州アルプス大学で授業を担当する。

「伝えた」を「伝わる」に変えよう! 「紙芝居プレゼンテーション」体験講座

今さらだが、えらいものを引き受けてしまったという気がしないでもない。

何しろ、「伝えた」を「伝わる」に変えることを教えるのですぞ。
ぼくの話が伝わらなかったらどうする?

まあいいか、反面教師という考え方もあるし。
などと逃げてはいけない。

適度に自分を追い込んでやってみるってものだろう。

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