Sustainability

2012年5月23日 (水)

水がない

今日の新聞にこんなことが書いてあった。

・世界には安全な水を飲めない人が2006年時点で8億8400万人いる。
・これが2050年には40億人に達する見通しだ。

これは大変なことだ。
2050年には世界人口が約90億人と考えられていたはず。
とすれば、2050年の世界では、人口の半分近くが安全な水を飲めずにいるということなのだろうか。

地球上に存在する水の量は決まっている。
増えもしないが、減りもしない。
水も結局のところは循環によって、いつまでもなくなることなく使える。

しかし、水を過度に汚したり、妙な汚し方をしてしまうと、水の浄化がむずかしくなり、安全な水の供給に問題が生じる。
水は使い過ぎないようにするのと同時に、汚さないようにすることが大切だ。

もちろん、水がなければ生きてはいけない。
よい水は体をきれいにしてくれる気がする。カラダにもココロにもよいだろう。

日本では、ついつい水は豊富にあると思いがちだと思う。
実は、エネルギー以上に真剣に考えるべき問題なのだと思う。
エネルギーの問題も切実であり、ついそのことばかりが気になってしまうが、実はエネルギーを大量に使う社会や暮らし方は水を大量に消費し汚してしまう傾向があるように思える。

エネルギーのことだけ、水のことだけ考えればよいわけではなさそうだ。

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2012年5月14日 (月)

創立70周年

5月18日、勤め先の会社が創立70周年を迎える。

会社創立時の社員数は9人だったそうだ。
70年間で社員数は一万倍に増えた。

先輩の方々の努力によって、70年間、続けてくることができた。
地域の方々が支えてくださったからこそ、今もこうやって会社が会社であり続ける。
そして、商品を買い、愛用してくださるお客さまあってこそだ。

日本には創立100年以上の企業も珍しくない。
世界的に見ると、長寿企業が飛びぬけて多い国らしい。

それらの企業からみれば70年などまだまだ、かもしれないが、それでも70年間続いてきたということはすごいことだと思う。何しろ、自分の年齢よりもずっと多いものなあ。

長寿企業を長寿たらしめたらしめるものは何なのだろうと思う。
そんな企業では会社と社員の関係はどうなってるのだろう。

ぼくの見るところでは、あまりあれこれと手を広げず、本来の仕事を愚直にし続けている企業が多いように思える。いわゆる本業に徹するということだ。

企業と社員についてはどうか?これはよくわからない。
企業と社員、などと書いてしまうと、どことなく対立的なものも感じさせてしまうが、使う側、使われる側みたいな話ではなく、本業のために経営者も一般社員もみな信頼関係を持って一体となっているようなイメージを感じている。

続けること、続くこと。それは派手ではないが、大切なことだと思う。
70周年を迎え、そんなことを思った。

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2012年4月22日 (日)

今日はアースデー

今日、4月22日はアースデーだ。
アースデー。地球環境について考える日とされている。

アースデーに合わせてのイベントもけっこうあるが、ぼくはイベントには参加せず、ひとりアースデーの日だった。
家の設備や道具に不具合箇所があったので、それらを修理したり手入れした。

故障したら直して使う。
性能が落ちてきたら、メンテナンスして使う。
手入れは大切だ。

いや家や道具だけではない。
自分の体だって大切だ。
体調が悪い時は、考えも堂々巡りするばかりだ。
この土日、けっこう体を使った。今、筋肉痛の部分もある。
マッサージしたり、ストレッチしたり、そして早めに寝たり。
体も大切にしよう。

ということで、モノや体を大切にすることを実践する一日だった。

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2012年3月20日 (火)

あの時の気づき

何を書こうかと考え、ふと思い立ち、一年前のブログを見てみた。

そうだ。
あの頃はいたるところが暗かった。
最近はどうなのだろう?
などという問いかけを発してること自体、あの頃より自分の意識が低下していることのあらわれだ。

計画停電だ、節電だ、という声に半分は踊らされ、いたるところで電気を消しまくった。
その結果、けっこう無駄遣いしていることにも気がついたと思う。
使わなくてもよいことに使っていたことに気づいた。
さらには、使わない方が気持ちよい場合もあることにも気がついたのではないか。

あの頃、原発がどうなってしまうのかというどうしようもない不安と、これがきっかけになって社会がよい方に変化していくという期待も生まれていた。社会を変えていくことへと自分も動こうと思った。
そして、動いた。

今、こうして振り返ってみると、喉元過ぎて熱さを忘れそうになっている部分もあることに気づく。
本当に切実な、張りつめたような気持ちを持ち続けることはしんどい。
だが、2011年3月のあの頃の気持ちは、やはり、折に触れ思いださなければ。

今、いろいろな活動を手がけ、その結果、何とかそれを動かしていくことに汲々となっている自分がある。
だが、それらの活動は何を目指していたのか。
自分としてはパラダイムシフトを考えていたのではないか、そこを忘れず、あきらめず、苦しいながらも
できる限り楽しみながら、やっていこうと思う。

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2012年3月 1日 (木)

洗馬小で授業

一昨日のブログで書いた授業は、今日が本番。
洗馬(せば)小学校の5年生との授業だった。

学校に到着するとまず校長先生との面談。ちょうど2月に児童会の役員などを6年生から引き継ぎ、責任感や使命感、やる気などを感じている子どもが多いとのこと。そんな彼らに、そのやる気を発揮する場を見つけられるような話をしてもらえるとありがたい、などと、一気にハードル上昇。そんな期待を担いつつ、授業の教室へと向かった。

5年生は約50名、2クラスだ。今日は5年生全員に話をする。

ナガサキアゲハの話から、松本地方が暖かくなってきているようだと話を展開。そして地球温暖化の話へ。温暖化ではどんなことが起きるのか、どうして温暖化が生じるのか、普段の暮らしと二酸化炭素の関係とか、自然の循環の話とか、できる限りストーリーを感じられるような話をしたつもり。

質問もそこそこ出て、いよいよみんなが手をあげ始めそうな雰囲気になってきたところ授業時間が終了。少し残念だった。

質問タイムも終わり、みんなが次の授業の教室に移動を始めた時に、一人の男の子がやってきた。その子は、新しく児童会の役員をやるらしい。
「児童会で何かやろうと思うけど、何をやったらいいでしょうか?」との質問。

ぼくは、こう答えた。
「こんなことをやってみたらいいよと答だけを聞くよりも、みんなで何をやったらよいのか、何をやることが意味あることなのか、そういったことを自分たちで考えてみるってことをやってみるといいよ」
「いろいろ考えて、それでもわからないことがあったら、呼んでくれればいくからね。その時には一緒に話し合って、答も出すよ」
「自分で考えてみるってことが、とても大切なんだよ」
まあ、こんな感じです。

これからの地球環境を考えると、どうもよい情報は少なそうだ。
でも、そんな話ばかりでは、子どもたちはいたたまれないだろう。だから、未来に希望が持てたり、可能性を感じることができるような話もした。
38億年の生物の歴史が証明する、持続可能なありかたの話をした。

子どもたちはどんなことを考えただろうか?

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2012年2月28日 (火)

授業を前に

昨年の11月、教育懇談会という集まりで講演させてもらったことがある。
その時のことはブログにも書いた。
松本、塩尻地区の、小・中・高の先生方の集まりだった。

講演を終え帰ろうとするときいくつかの学校の先生方から、自分の学校でも話をしてもらえないか、とお声がけいただいた。そのうちのひとつ、塩尻市の洗馬小学校で、環境の授業をさせてもらうことになった。
5年生を対象にした授業で、2時限分を使うことができる。

確かめたところ、環境問題については四大公害病を少し学んだ程度だとのこと。
地球規模の環境問題についてはまだ何も手がけていないそうだ。

ということは、まずそこのところの話から始めないといけないわけだ。

授業は明後日の朝。もうあと一日しかないが、まだあれこれ考え、悩んでいる。
考え、悩むことが楽しい。
なぜなら、限られた時間の中で、かなり本質的な話をすることになりそうだから。それにはどんな組み立てで話を展開するのがよいのか、どんな事実を伝えればよいのか、なかなかよい頭のトレーニングになる。

子どもたちに絶望を感じさせてはならない。自分で考えることの必要性や重要性も感じてほしい。

そして、とにかく、わかりやすく。

ぼくのささやかな希望としては、その日、家に帰った子どもが家族に「今日、学校でこんなことを聞いたよ。それでね、こんなことを思ったよ」と話してくれるようだったら最高だ。

と、そんな期待も抱きつつ、ちょっとした夢も描きながら、もうちょっと考えてみよう。

子どもがわかる話だったら、大人にもわかるはずだから。

PS
実は、子どもだから理解できる、大人は理解できない、理解しようとしない、これもまた現実だとは思っている。

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2012年2月19日 (日)

メモリアルデー

3月11日が近づいてきた。

あれから一年。この日に、脱原発・反原発のデモや集会など、いろいろな企画の情報が入ってくる。
参加の呼びかけもよく見聞きする。

3月11日のことを考えると本当に心が痛む。
地震と津波。原発人災がなかったとしても、あまりにもむごい天災だった。
そして、原発。
放出した放射性物質のせいで、不明者を捜索すべきときにできなくなってしまった。こんなにむごいことがあってよいのだろうか。

ほかにもいろいろあるが、3月11日は鎮魂の日だ。今までの社会、現在、これからのこと、よくよく考えてみよう。

この日は特別な日であるとともに、ぼくはあまり特別視したくない気持ちがある。
この日に向けてあまりイベントのようなもので気合いを入れていく気にあまりならない。
世の中をみると、何と言うのだろう、一種の盛り上がりのようなものがあるが。

その一日のために力を入れるのではなく、日々に力を入れたい。
ぼくはそう考えている。

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2012年2月 7日 (火)

気づいたことに気づこう

原発がこんなものだとは知らなかった、エネルギーが大変だ。
東京電力の原発事故で、さまざまな気づきを得た人は多い。

その気づきが、脱原発・反原発の流れを作り、人の意識を再生可能エネルギーへと向かわせている。
望ましいことだ。ぜひ、これをもっと広げていきたい。

だがその一方で、「待てよ」という思いが大きい。これでいいのか?その思いが強い。

なぜ、原発とか再生可能エネルギーとか、そのことばかりなのか。

ここのところ寒い日が続き、大雪が降った。ここで一転暖かくなり、雨だ。今まで積もった雪が新たな災害を起こしそうな気配だ。
今までとは大気の流れが変わってきていることを実感する。

この冬の気象が気候変動によるものなのかどうか、それはすぐには立証できないだろう。
だが、気候変動が進むと、このような気象が起きやすいことはすでに報告されている。

気候変動についての気づきはないのだろうか?
生物多様性についての気づきはないのだろうか?

原発の問題に気づいた時、何に気づくのかが重要だと思う。
原発の問題、そのことだけに気づくのか。
いままで気づかなかったことがある、そういうことにも気づくのか。
後者であるなら、「では他にも気づくべきことはないのだろうか?」、そういう考えが浮かんでくるに違いない。
ぜひそういう気づきでありたい。

そして、ずっと前から気候変動やら、生物多様性やら、化学物質やら、酸性雨やら、あれこれ言ってた人たちは、なぜ今まで気づかせることができなかったのか考え、ここで大きな気づきが生まれている現実をとくと見て、何が気づかせる要因なのかを考えてみることが必要だ。

気づけば動く。
だから、気づきは大切なのだ。

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2012年2月 2日 (木)

メタンハイドレートに手をつけるな

今夜のNHKでメタンハイドレートのことを報道していた。
メタンハイドレートの解説はこちら

やれ将来有望だの、国産エネルギーだの、これで国際的な地位も確保できるのだの、浮かれているとしか言いようがない。
NHKの大越キャスターもニコニコとうれしそうに。そんなにうれしいのかなあ。ぼくは悲しい。

メタンハイドレートについては、ちょうど6年前にこんなことを書いている。
この考えは今も変わらない。

新たに見つかったとはいえ、有限の資源であるはず。
それにみなが群がってしまっては、持続可能などおぼつかないではないか。

聞きもらしたと思いたいが、気候変動について触れていなかったのも気になるところ。何しろメタンですから。

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2012年2月 1日 (水)

「正しさ」が「正しさ」を排除する

原発にしても、自然エネルギーにしても、これほどまでに関心が高まり、声をあげる人がでてきたことはないように思う。だが、考えていることや目指しているところは、人それぞれ、かなり違うように思う。
違うことはあたりまえであるし、むしろ健全なことだと思うが、かなり根本的に違っているのに同じだと思い込んでやっていると悲劇が生まれそうだ。それは十分にあり得ることだと思う。

この手の問題は、やっている人たちは、自分が正しいと思っている人が多いだろう。よいことをしていると思っている。それは必要なことでもある。
一方、たとえば金儲けのようなことは、何となくやましさみたいなのを感じているのではないだろうか。だが、やましさがあることが、それに関係する人を同じ方向に向かわせる要因となるような気がする。

原発をやめさせること、自然エネルギーを普及させること。これらはともに「正しい」ことだと思う。だからこそ、気をつけないと、「正しい」ことをやっている人が、人を集め求心力を作っていくのではなく、人を排除するような振る舞いをしてしまう可能性があるように思える。
自分は正しいことをやっているのに、どうしてみんな分かってくれないんだ!みたいな感じ。

などということを考えてしまったので、せめてぼく自身はときどき立ち止まって、自分がどこにいるのか、どこへ向かおうとしているのか、それはなぜなのか、見失わないようにしよう。

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